昨日16日から札幌大通地下ギャラリー500m美術館 「反骨の創造」展が始まりました。

500m美術館 vol.33 「反骨の創造性」

出展作家は、坂巻正美さん、鈴木涼子さん、藤木正則さんと私です。

坂巻正美さんと鈴木涼子さんとは設営時に、久々にお会い出来て言葉を交わすことができました。旭川在住の藤木正則さんは緊急事態制限解除後に設営予定です。札幌はいまや、ごく擬似的ながらカミュの『ペスト』の都市オラン状態、ソフトなロックダウン状態なのだということを実感しました。

この時期に展示が実現できたのは、「500m美術館」が地下通路に作られた展示会場であるという特殊性に依るところが大きいのですが、予定されていたアーティストトークなどは未定のままです。

 

こんな状況下での展示ですが、11月18日までの長丁場なので、状況も変化するでしょうし、ポスト新型コロナ禍での制作・展示について、あるいはもっと広い範囲でこれからのことを考える機会でもあります。ポスト新型コロナ禍の世界は、どう考えても以前のような世界には戻らないし、放置すれば、以前の問題のみがそのままの、一段と住みにくい世界になるように思います。せめて可能な限りで、様々なエリアの方と、問題に取り組む作業ができればと思います。

 

以下、鈴木涼子さんの展示

 

 

坂巻さんの展示

 

 

私は「On_沙流川」からの出品です。

 

 

最後に、今回の展示のキャプションとして書いた小文を掲載しておきます。

 幕末に、サハリン、国後、択捉を含む蝦夷地を、六度に渡って調査した松浦武四郎は、膨大な地名を記録した。日高山脈から太平洋に流れ出る沙流川流域においても、松浦武四郎は、その地の人びとが口から発していたであろう、ひとつひとつの沢の名の「音」を丹念に採集し、片仮名で記録した。「On_沙流川」は、彼の記録した名を頼りに、沙流川に流れ込む支流、沢を撮影したものだ。

 沢に入り、そこを探るということは、視覚のみならず、手さぐりで、耳をそばだて、風の流れや湿り気や匂いに気をくばりながらおそるおそる前に進むことになる。つまり、普段以上に、視覚以外の触覚、聴覚、嗅覚などを動員することになる。使用したフィールドカメラでの撮影は、レンズを閉じ、4×5サイズのフィルムホルダーを装着してシャッターを切るという操作になる。三脚を使わないために、ファインダー内の構図を確認することは出来ず、また、焦点もあらかじめ任意のどこかに設定することになる。写真の成立のプロセスに最も支配的な感覚である視覚の介入を、極力限定して撮影は行われる。

 沢の内部をまさぐる行為は、(ベンヤミンの言う)建築を受容する際に使用する諸感覚、すなわち、視覚以外の諸感覚の使用と似ている。とはいえ、そこに成立する写真は、あくまで視覚的なものであるだろう。そこには、建築を実際に使用する際に動員される触覚、聴覚、嗅覚などは、少なくとも表面上には現れない。それは、文字を使用しないアイヌの地名の「音」を、カタカナで表記するという武浦武四郎の、ある意味倒錯した行為に擬えることができるかも知れない。無文字世界に介入して、そこの固有名としての「音」を文字化してしまう暴力性への批評的位置は、写真のもつ暴力性、つまり、絶え間ない流れの中で変容する出来事を、瞬間として固定してしまう写真行為への批評的位置としても捉えることができるかもしれない。他者の場所に踏み入ってその固有名を記録すること、その場所を可視化すること、この二つの行為に対する批評的な位置は、未だ定まってはいない。