「私は、3.11の震災の後で、かつては潟が太平洋側にも点在していたという事実に初めて気づかされました。明治維新以降に太平洋沿岸の潟はほとんどが干拓され、陸(水田地帯)となっていましたが、今回の震災で津波を被ったことで、元の姿(潟や浦)へと戻っていたのです。[略] 津波と原発事故によって壊滅的な被害を受けた福島県南相馬市の辺りにも潟が点在していたことがわかってくる」
これは、ユリイカ「出雲特集号」における赤坂憲雄氏の、三浦佑之氏との対談の際の発言です。

この言葉に惹かれて、南相馬市博物館に伺い、そこで学芸員の稲葉修さんに対応していただきました。稲葉さんに見せていただいた資料『海辺の民俗』によれば、南相馬市小高区の太平洋岸に位置するところに、井田川浦と呼ばれた浦が、江戸期の『相馬領域沿岸図』に「蛯沢浦」という呼称で記載されています。その資料『海辺の民俗』には江戸期の井田川浦での漁労の様子が詳細に調査されています。福島への取材の合間に訪れた極短い時間での滞在でしたが、稲葉さんやその場所にあるさまざまな事象からは、実に多くのことを教えられました。

浦のあった南側の丘陵地には「浦尻貝塚」、北側には「蛯沢稲荷神社」が位置しています。浦尻貝塚には残念ながら立ち寄ることができませんでした。
【浦尻貝塚】(文化遺産オンラインより)
「縄文時代前から晩期にかけての貝塚である。南北に延びる舌状の段丘上には、竪穴住居、柱穴群、貯蔵穴、土坑墓が密集し、竪穴住居が分布する中央部は直径約60mにわたって掘削され、平坦部を作出していたことが明らかとなっている。全部で4箇所の貝層が確認され、段丘南側の東西斜面には3箇所の貝層が分布し、いずれも東西15から20m、南北30から40m、最大厚1.8mと大規模である。また、段丘南側では晩期前半の貝層を確認している。貝層はいずれもアサリを主体とし、魚類ではスズキなどの内湾性種が多く、ウナギのほかにハゼ、イワシなどの小魚も多い特徴がある。動物ではシカ、イノシシの他にカモ等鳥類が多い。さらに晩期ではヤマトシジミやフナ等の増加から汽水から淡水域の利用拡大、大型サメ類やマダイの増加、骨角製漁労具が多く出土するなど外洋域の利用なども顕著となることから漁労活動の変遷も明らかとなっている。このように浦尻貝塚は縄文時代前期後葉から晩期前半にかけて長期間形成され、遺構群の分布状況から周辺集落の中核的な集落として位置付けられる。また、貝塚と集落が伴って確認できることから、これらの変遷や形成過程にも関連性を認めることができ、各貝層の動物遺体群は当該地域の縄文時代の生業と環境の関わりを考える上でも重要である。」

「南相馬市ホームページ・おだかの文化財」より
6 蛯沢稲荷神社奉納絵馬地引大漁図及び和船模型
 蛯沢稲荷神社は、古くは代々の藩主から大事にされており、今でも漁民信仰を集める神社として知られています。明治7年に奉納されたこの大漁図は、地引網漁の様子や魚の取引の様子など浦尻の浜と思われる漁村が細やかに描かれています。
 また、他に和船の模型が二隻納められています。一隻は江戸時代に作られたもので、機械船が登場する前の大型荷船の模型、もう一つは明治時代のもので、手こぎの鰹船の模型です。
 今では知ることの難しい昔の船造りの技術や、船の構造を知ることができる貴重な資料といえるでしょう。

被災の直後から被災地の生物調査を開始した稲葉学芸員によれば、津波により壊滅状態になっていた浦周辺の生物たちは、そのとてつもない厄災を生き伸び、あちらこちらで復活し始めているそうです。

『被災地の原野に生きる』(平成26年南相馬市博物館刊)の稲葉さんのテキストより、抜粋します。

「被災地背後に入り江のように入り組む丘陵地は、海からの津波の力を徐々におさえる効果があったようで、丘陵地谷間の奥部から、湧き出る湧水がつくる細流付近では、水生植物や昆虫類、魚類、両生類が見つかりました。それらの個体は細流を伝い、津波被災地に向かって分布を広げ、その個体数や種類は、年を追うごとに増えていきました。[略] この地域は太古の昔より何度も大津波の被害にあっていたことが歴史資料から分かっています。生き物たちは、津波の度に複雑に入り込む丘陵地の地形や湧水に助けられ、また生息種が入れ替わりながら、その時代ごとの生物相を形成してきた可能性があります」

最後に、「震災復興と環境保護〜福島県松川浦の事例から〜」と題されたシンポジウムが、福島大学の黒沢高秀教授らの参加で、2014年11月24日に行われたことを記しておきます。
このシンポジウムの詳細は分かりませんが、そのフライヤーにあった一文には心引かれました。
「震災から3年半、大きな撹乱だったにも関わらず、松川浦では、生物の種類はほぼ戻ってきている状態です。被災地の海岸線の復旧工事も本格的になり、津波で壊滅した松林のあった砂州の一部を、かつてあった塩性湿地に戻していこうという取り組みが進んでいます。これは他の被災地にはない動きです。一方、一早い復興や安全の名の下に多くのものも消えていっています。私たちは次世代に何を残していくべきか、復興の現場の話から皆さんと一緒に考えてみおたいと思います」

なお、井田川浦で撮った写真の一部は、北海道立近代美術館で今月の31日より開催される「もうひとつの眺め(サイト)展」で展示します。http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/knb/exhibition/sp_20150322.htm