リンゴ、ブドウ、サクランボ、イチゴ、ブルーベリー、プラム、ナシ、プルーン。ざっと思いつくだけの仁木町で栽培されている果物です。以前、ドイツからオーストラリア(ニュージーランドだったか)に、農業を学びに行く途中に北海道に立ち寄った女子大生のヒッチハイカーを仁木町から小樽まで乗せたことがありましたが、彼女は、リンゴと露地物のトマトがひとつの場所で穫れることに驚いていました。
道外の、仁木町を知らない方にお教えしますが、余市川という清流の下流域で、なだらかな丘陵がほとんどを占め、ウイスキーの街余市町(マッサンというNHK朝ドラの舞台でもあります)の隣りに位置する仁木町とはそんな所です。

仁木竹吉というリーダーに率いられ、その地に入植した開拓団361名は、徳島県の吉野川市という地域からの移住者です。現在吉野川市と名乗っている地域はかつての郡名では、麻植(中世までは麻殖)と記して「おえ」と呼ばれていました。このブログでなんども紹介してきた阿波忌部の勢力圏はほぼこの地域に重なるようです。

その忌部が、粟を栽培したと伝えられるのが、入植者集団の出身地粟島(善入寺島)。吉野川の中州である善入寺島は、つねに洪水の脅威にさらされた地域で、そこの住民の集団が仁木町に入植したのだという。
仁木町史には次の記載があります。
「偶々明治七年郷里吉野川大洪水の為氾濫して流域の田畑流失し、一面石原と化するの惨状を呈し、農民の窮乏惨状に黙するに不忍、竹吉率先此羅災村民を救ひて今後の楽園を本道に需んとして、明治八年草創時代の本道に渡来して本道各地を抜渉する・・・・」

以下、現在の粟島(善入寺島)を紹介します。
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絶滅危惧種Ⅱ類に指定されているナベズルが飛来していました。

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吉野川北岸の切幡寺から南岸の藤井寺までの遍路道は、粟島を横断しています。

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1915年にこの地域は強制移住させられますが、それ以前に信仰されていた浮島八幡宮という神社が存在していたようですが、これが跡地でしょうか。

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洪水へのささやかな備えがこのようになされていますが、効果があるのでしょうか。竹薮の向こうは、吉野川本流です。

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洪水はこのような窪地を残します。幼年期の私はこんな土地の隆起や窪みに異様に引かれました。その性癖はいまでも続いています。

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対岸の川島城があったといわれる城山を望み、手前が吉野川本流

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粟島から川島への沈下橋。遍路道でもあります。
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城山から望む粟島

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城山の光景。隣にコンクリート製の天守閣ができていますが、これは無視します

『湾生回家』というドキュメンタリー映画が、台湾で大ヒットしているそうです。
湾生とは、日本統治時代に台湾で生まれ、日本の敗戦によって日本に引き揚げた日本人をさす言葉、回家は、故郷の台湾に戻るという意味だそうです。
「帰国(この場合の国は日本のことですが)」を強いられ、高齢となり、台湾に戻りたいと望郷の念に駆られる人たちのドキュメンタリーが台湾でヒット(しかも大)しているということは実に興味深いです。
この映画を知ったのは、雑誌「世界」の2016 年1号に掲載された四方田犬彦さんの「日本映画の中の戦後七十年」という映画批評からです。
注意を引かれたのは、映画自体もそうですが、四方田氏の文章の、
「『湾生回家』で中心となるのは、二十世紀の初頭、徳島県吉野川流域から集団で花蓮近くの荒地に入植した農民たちの裔の男性である。彼らは入植地を吉野村と名付け、・・・」という部分。
もしかしたら、この湾生たちは、粟島(善入寺島)を退去させられた人たちではないかという連想が、ただちに浮かびました。粟島(善入寺島)は、1915年に強制退去させられていて、時代的、場所的には符合します。もしそれが事実だとしたら、北海道の仁木という場所と私の生まれた川島町という町、それと台湾の彼らの入植地とが、川の洪水という自然のもたらす事態によって結ばれることになります。もっともこのことは未だ確認はできていません。『川島町史』にも、善入寺島を退去させられた人たちの行方は、記されていません。なんとか資料を探したいものですが。

ところで、四方田さんの論考は、この映画だけでなく、映画の「戦後70年」をめぐる表象を、多義に渡って展開しているので是非一読を。