昨年12月17日に、札幌市立大の須之内元洋さん、九州産業大の大日方欣一さん、明治大の倉石信乃さんの協力を得て、「掛川源一郎写真委員会」の主催で、「北海道写真とアーカイヴ」と題された催しが行われました。

下記は、その時の案内チラシに寄稿した拙文です。若干の加筆の上、ここに掲載します。

 

「『北海道写真の前提』をめぐって」

写真批評家倉石信乃による「北海道写真の前提」(photographers’ gallery press no.8掲載)の冒頭部において、1871年以降、開拓使の委託により本格的にはじまった「北海道写真」は、1968年の「写真100年——日本人による写真表現の歴史展」編纂委員である、内藤正敏、多木浩二、中平卓馬らによって「発見」されることで、日本写真史上での存在が不可欠なものとなったと指摘されている。彼らによって、明治初期に田本研造をはじめとする写真家たちにより撮影された写真群が、イデオロギーに汚染されていないアノニマスなドキュメント=記録としての、「北海道写真」であると規定されたのだ。

同時に倉石は、明治初期に撮られた、アイヌ民族が被写体となった写真の多くは、「差別と非差別をめぐる非対称的なポリティクスの力を証言する」ものだとも述べる。被写体となった人物のポーズや構図は、明らかに支配と被支配の関係を表現しているのだ。同時に、「写真100年——日本人による写真表現の歴史展」における、それら、アイヌ表象への批判的省察の欠落も指摘している。

「写真100年——日本人による写真表現の歴史展」編纂委員による「北海道写真」の「発見」以前に(そして以後も)、掛川源一郎や前川茂利、あるいは長万部写真道場といった多くのアマチュア写真家たちによって、すなわち、北海道内に住む写真家によって、開拓農民の生活や、戦後開拓のありさま、高度成長期にはいっていく時代に生きる人びとの様子、そしてその地にともに住んでいたアイヌなどが撮られた。北海道人である写真家が、ある種の主体として、北海道とそこに住む人々を写真として可視化した。それらの写真群を、わたしたちは眼の前にしている。

田本らによる写真、掛川らによる写真等々、目の前にあるこれらの写真は、意識的に写真に関わろうとする者としてのわたしたちに、写真史的な幾つかの問いを投げかけるだろう。その一つは、果たしてわたしたちは、掛川らの写真行為を受けとめ、それを対象化し、幾分かでも継承しようとしただろうかという問いであると思われる。さらにそれら写真群はわたしたちに、(われわれの、なけなしの)想像力の向くべき先として倉石によって提示された、ここではない「よそ」に向かって、幾分かでも遡って近づき得ただろうかという内省を促しもする。

21世紀初頭に在るわたしたちが、積極的な意味で、つまり未来に向けて、「北海道写真」に対し関わろうとするのであれば、そして「北海道写真」に、新たな何がしかの一篇を付け加えたいと願うなら、それらの写真そのものや、それへの批評・行為などが形成してきた「北海道写真」史を読み直してみることは、必須の前提であるだろう。そしてそれは、それぞれの個別の場所で、個別の立場でなされなければならない。そこに、わたしたちが共有する困難があるのだと思われる。

 

2017年12月 露口啓二