保苅実写真展-カントリーに招かれて-〜オーストラリア・アボリジニとラディカル・オーラル・ヒストリー〜は、4月29日より北海道立北方民族博物館で開催される。    

 そこでの展示のためのプリントを、ようやくし終えた。展示が予定されている写真は、ひとつはキャビネサイズのプリントを撮影し、それをプリントしたもの。もうひとつは、ネガから直接プリントしたものだ。キャビネサイズにプリントされた写真は、保苅実自身の手に取られ、眺められたものだ。プリントは、傷がつき、指紋がつき、汚れ、なかには、博物館学芸員笹倉いる美さんの指摘のように、オーストラリアの(もしかしたらグリンジの)赤い土と思われるものが付着しているものまである。撮影に際し、それらはすべてそのままにした。また、通常の複写という技術は使わず、物としての撮影をおこなった。そのためにコントラストは強くなり、ディテールはさらに失われた。そうすることで、イメージとしての写真からこぼれ落ちるものもあるだろうが、しかしまた得るものもあるはずだ。保苅実の出会った風景や物や人々は、彼のカメラで切りとられ、イメージという物質となった。後にそれは、手に取られ眺められる、イメージが刻印された印画紙という物質ともなるだろう。そのプリントが今回さらに撮影され、その写真のプリントを見ることで、私たちの視線は保苅実の視線と二重に交差することになる。彼が写しとったイメージと彼が手に取り眺めたプリントが同時に現れる写真を、私たちは眺める。

 写真のいくつかは、私たちが知っている(たとえ行った経験がなくとも)オーストラリアの乾燥した大地のありふれたイメージだ。またいくつかは彼の出会った、おそらくグリンジの人たちの生活の様子や彼らとの記念写真などだ。そこに記録としての写真だとか、アーカイヴのための写真といった意識は強く感じられない。その身振りは、私たちが旅で、ほとんど無意識にここそこの場所や場面でシャッターを押す、そんな行為に近いのではないかと思われる。おそらく、(単に憶測に過ぎないが)保苅実にとって写真を撮ることなど、ほとんどどうでもいいことだったのではないか。ではそこで彼は何をしていたのか。保苅実はそこで、グリンジの長老から学んだとおりに、「静かに身を置き」、「注意深さを養い」、「感覚を研ぎ澄まし」、そして、やってくる何かをただ待っていたに違いない。そんなときに写真を撮ることなど不要なことでしかないだろう。しかし、私たちにとって幸運なことに、保苅実は写真を残してくれた。ただ単に写真を撮るという行為、記録のためでもなく、記憶のためでもない、ましてや何かを表象するためでもない、そんな写真行為にも、いや、だからこそそこに、何かの写真が蹶然と出現してしまうことがある。写真とはそういうものだと思う。保苅に歴史を語る、カメラを見つめる、ジミー・マンガヤリの静謐で硬質な存在感。何気ない風景のスナップが、時には聖性さへ感じさせる。

 歴史を語るジミー・マンガヤリの写真など、何枚かの写真は、「ラディカル・オーラル・ヒストリー」の口絵に使用されたものだ。「ラディカル・オーラル・ヒストリー」に収録された、彼が書き綴った言葉やいくつかのイメージはもうすっかり馴染みになってしまった。だが、そこを訪れる度にそれらの言葉やイメージが、また違った笑顔で迎えてくれることも、何度となく体験してきた。保苅実の言葉は、いくつもの、たえず違った光を放つ。保苅実写真展-カントリーに呼ばて-で、私たちは、保苅実との、また新たな出会いを体験することになるのだろう。私たちも彼と同様に、あるいは彼によって、カントリーに招かれるのだ。

 保苅実写真展-カントリーに呼ばれて-は4月29日より北海道立北方民族博物館で開催される。是非ここで保苅実に会って、あるいは再会していただきたい。また、このような機会が他の場所で催されることを願ってやまない。