無題
category: ボサクのタワゴト
3月10日にテレビ番組で、「東京大空襲語られなかった33枚の真実」を見、そこで初めて、警視庁写真係 石川光陽氏の名と33枚の写真の存在を知りました。
テレビを通してですが、石川光陽氏の写真の一部を拝見し、思わず、そのときの、石川氏のファインダーの中での思考などを考えてしまいました。

焼け野原となった街に、石ころと同じように焼かれ転がる母と子、川に折り重なった犠牲者の眠るような顔、このような光景を前に、写真を撮るとはどういうことでしょうか。
写真を撮るという行為のひとつに、いやおうなく選択と排除が入ると思います。カメラを向け、ファインダーを覗き、これを入れ、あれを入れない。あれを入れるとこれが入らない。さらに何かのためにはこれが必要で、あれは不必要。こういったことの判断の連続が、写真につきまとう選択と排除の行為です。少なくともわたしにはそう思われます。
だが、石川氏がレンズを向け、写そうとしたものは、被写体だの対象だの距離だのといった関係や、記録であるとかドキュメンタリーであるとか、あるいは何かの表象であるといった、写真をめぐる言葉を失わせるものであったはずです。ここでは、さまざまな言葉が意味をなさなくなる気がします。そのときの石川氏の写真行為には、自らを賭した強固な意志はあっても、「選択と排除」という言葉などは、入る余地がなかったと推察されます。

しかし、わたしたちは、これからも言葉に頼り、言葉と戯れながら、写真を撮り、写真と接していくのだとも思います。
石川氏は言うに及ばず、空襲の被害者や遺族の方々にも礼を失することを書いてしまったのかもしれません。いずれ、石川光陽氏の33枚の写真を拝見したいと思います。