3月8日まで青森県立美術館で行われている「小島一郎写真展」に立ち会うことで、私自身にさまざまな変化がおこりつつあります。展示をご覧になっていない方には、極めて分かりにくい文になってしまいましたが、個人的なたわごととお許しください。いずれもう少し分かりやすい文が書ける時が来るかと思います。
仔細は左のLinks ICANOFと青森県立美術館をご覧ください。

小島一郎「の写真」への返礼
小島一郎の写真にイデオロギー的抑圧への抵抗とその危うさを見、それを貧しい言葉に置き換え思考したつもりになったとたん、新たなイデオロギーに簡単に加担してしまうこと。写真を信じる身振りを冷笑しつつ、自分は安全地帯に身を置き、傷つくこともなく写真と戯れてしまうこと。多少なりともしっかりと結びあわせたつもりでいる己の足場が揺らぎはじめたことを、いずれ再構築に向かう予兆だと信じたふりを装うことで、自らの崩壊を認めまいとすること。などなど、さまざまな事態が一斉に浮上しまとわりついてくる。この不快を、心地よいことだなどとごまかしてやり過ごすことなく、今度こそしっかりと身にまとうことにしようと思う。それを新たな仮の衣装で覆い隠し、なにくわぬ顔で、明日はまた写真と戯れることになっても、いずれほころびから現れ出るだろうその不快な衣装が身体になじむまでは、身にまとおう。それでせめてもの小島一郎への返礼になるだろうか。

展示室Eについて
投射される不在のプリントは、辛うじて可視化されることで、非在のネガ(場所)を指し示す。
その場所に入ろうとする者は、一つの視線に耐えねばならない。昆布を手に、しかし決して昆布ひろいをしているわけではなくただ立ち尽くすその人の、怒りや、恐れ、悲しみといった感情などとは無縁な、裸の視線を見返せる者などいるだろうか。だが、その視線を見返せないまでも、見られることを辛うじてであれ耐えようとする者が、展示室Eに入ることができるだろう。いずれにしても、その場所に入る者(私)は、自らの立ち位置の不鮮明さを告白せざるを得ない。

高橋しげみ学芸員、ICANOF・豊島重之氏への謝辞
過剰感と欠落感を同時に備えた小島一郎のプリントを、小島の闘争の表出の場だとようやく認識できたとする。だとすれば、ICANOFと豊島重之によってあやうく可視化された「展示室E」が指し示すネガの不在/非在は、小島一郎の闘争の場がついに写真という場と交差した事態をも指し示すことだと確信できるだろう。このことを確認しつつ、不快な衣装の肌触りと裸の視線に射抜かれる痛みに耐えることで、小島一郎の(あるいは高橋しげみ、豊島重之の)次の召喚に備えることができるかもしれない。