及川廣信氏より、ご自身の舞踊のyoutube掲載のお知らせをいただいた。
及川先生とは昨年9月のBBB展ではじめてお会いし、その後「露口の写真は動いている」というご指摘をいただいた。このことはいまだに私に少なからぬ衝動をあたえ続けている。それは及川先生の身体観が当然のごとくあたえる衝撃であり、特に「内観」という私の理解を超えた語彙のもつ衝撃でもある。それとは別に、シャッターを押す行為は言うにおよばず写真を撮るという行為での撮影者という役割は、だれとでも交換可能なのではないかというのが私の素朴な思いであり、それが「露口の・・・」という主体の指摘とどのような関係を持ち得るか、たちどころには理解しがたいことから来る衝撃も存在している。「写真が動く」ことを見る能力を持つことはおそらく私にはできないだろう。写真的無意識、写真的不可視など、さらに、八角聡仁氏によるBBB展評での「見えることと見えないことの明滅 」。それらは「写真が動く」ということといかなる関係にあるのか、それとも無関係なのか。

豊島重之氏が、及川先生と私とのささやかな交信をひとつの契機とし<ハエを呑み込む口が、ハエの口に呑み込まれるにはどうすればいい>と題するテキストを書き上げ、驚くべきことにそれをモレキュラーシアター「マウスト」東京公演において「演劇のアポトージス 第四章」として配布した。
私信としていただいた及川先生のご指摘と「演劇のアポトージス 第四章」で豊島氏の述べられたことに、正確に対応する能力を今の私は残念ながら持ち合わせないが、今後、豊島氏によって提示された、いくつかの概念「鏡像異性体」「対掌性=カイラリティ・キラリティ」などを手がかりに僅かずつにじり寄るしかない。写真は「(私が)見るということの身体性」とどこかでずれているという思いは、「写真家の身体性」から「写真それ自体の身体性」への問題の核心の転轍という指摘に救いを見いだせるかもしれない。

及川先生からは別のメールで、北海道への親近感を伝えていただいた。管啓次郎氏のイサムノグチ、モエレ沼への関心、根本忍氏の「濃昼」への関心、北島敬三氏の北海道撮影開始とあわせ、一昨年のPGP「田本研造特集」にはじまる北海道へのベクトルの磁場が、一層強まる予感をいだきつつ、我が貧弱極まる頭脳に課せられた難問を携え、2010年を起動させたい。