昨日、藤木正則さんの展示が完了し、札幌大通地下ギャラリー500m美術館.vol.33「反骨の創造性」展が、参加者全員そろって再スタートできました。数カ月に渡る新型コロナウイルスによるパンデミックの下での生活という非日常と、その状況のなかで展示を行うというはじめての経験は、鈍い頭にも多少の思考を促しているようで、輪郭が明確にならず不明瞭なままの言葉ですが、恥を忍んで記しておきます。

 ある著名な歴史学者は、(私たちは)「国際的な連帯で危機を乗り切るか、国家的な孤立主義を選ぶか」選択を迫られている、また、新たな独裁者が生まれる可能性もあり、民主的な制度を維持するかどうかの選択を迫られている、という。そして、この危機がもたらす憎しみ、強欲を斥け、連帯によってその後の世界をよりよいものにすることはできる。我々はいま、その分岐点にいる、というのだ。分岐点?凡庸極まる私でも、人類が分岐点にいることぐらいはわかる(と思う)。民主主義的な制度が大事と言うが、では、あなたの国の民主主義は大丈夫ですか、と問いたくなってしまうのは礼を欠いているだろうか。でも、どうもどこか釈然としない。あなたたちはあなたたちの政府を民主的に選べていますか、と問いたくなってしまう。私には、私たちの政府に対してそう言い切れる自信はない。

 また、著名な生物学者は、危機的状況を認めること、個々が責任を自覚すること、他から学ぶことの重要性を強調する。そしてこの危機は、「世界レベルのアイデンティティ」をもたらす可能性がある。必要なことは「政治的なリーダーシップ」だという。だが、現実には、世界は、この危機的状況に不必要なリーダーたちだらけではないか。しかもこの危機的状況にもっとも不必要な指導者は、他ならぬあなたの政府の指導者ではないかと言いたくなってしまう。もちろんこの著名な生物学者は、そんなこと承知の上なのだし、これも礼を欠いた物言いだと思うのだが、それでもやはり釈然としない。

 大澤真幸さんは、国民国家を超える連帯が必要だという。そして、新型コロナウイルス問題は、破局へのリアリティーを増幅させ、膠着状態を変える可能性があるという。もしかしたら、今回のパンデミックは、世界を破局状態に向かわせるかもしれない。ただそれはそれでとてつもない苦難を、そして、より弱者に、耐え難い苦難をもたらすということではないか。今の状況を「静かに進行するカタストロフィ」(浅田彰氏)だと認識すれば、膠着状態を変えることの現実性に希望が持てるのかもしれないのだが。

 『分解の哲学』の著者藤原辰也さんの言う「私たちはもう、コロナ前の旧制度(アンシャン・ジレーム)には戻れない」ということは間違いないように思える。また、彼が「パンデミックを生きる指針」の第一にあげる「うがい、手洗い、歯磨き、洗顔、換気、入浴、食事、清掃、睡眠という日常の習慣」は、私たちにも実行できそうだ。問題は、これらは彼が言うように「誰もが誰からも奪ってはならない」ことなのだが、私たちの政府はどうだろうか。私たちの政府がこれらのことを「誰からも奪わない」、(少なくとも日本に居る)すべての人たちにそれらを与えようとする政府であるとは、少なくとも現状では思えない。私たちの政府がその方向に将来向かうことも期待できそうもない。せめてそれぞれの都道府県レベルの自治体、あるいは市町村レベルの自治体がそういう意志を持ち、その方向に向かおうとすることには、希望をもちたいと思う。そのためにできることは何か。

 開業が延期になっていたウポポイは、6月9日に、白老町民に限定した内覧会の募集を始めたのだが、新型コロナウイルスは、「観光」にも強烈な衝撃をもたらした。グローバル資本とわが国民国家の協働(結託)による「観光」戦略は、大きな変更を強いられるのだろう。ここで思い出すのが、旅行家ブルース・チャトウィンの名著『ソングライン』と歴史家保苅実の「ソングライン」理解の差異だ。旅を心から愛するチャトウィンは、アボリジニを知るためにオーストラリアを旅し、「ソングライン」と呼ばれる歌の道と出会う。アボリジニは彼らの大地を歌の道、すなわち「地図」として記憶し、歌によって語り継ぐ。それはアボリジニの、先祖代々伝わる神話でもある。彼らはこの歌の地図を使って、オーストラリアの大地を「自由に」旅することができる。これがチャトウィンの『ソングライン』のベースとなる考え方だ。だが、保苅は、チャトウィンのこのソングライン理解に対して、彼への心からの愛情を表明しつつ、異論を提示する。ソングラインは「未知の土地を旅するための地図」ではないと断言するのだ。彼は、自分の知らない土地を旅するためには、「そこの「歌の地図」の所有者・生活者とその精霊の許可を受けて、その土地を彼らと共有しなければ」(保苅実ブログより)ならないという。「ソングライン」は、アボリジニの「歓待」の装置であり哲学なのだ。私たちが、知らない土地を旅するときの、あるいは逆に他者を迎えるときの、最低限であるとともに最高のレベルでの心得がここにはあると思う。それは、ポスト新型コロナウイルスにおいて、「観光」あるいは「旅」をあらためて考えてみるとても重要な「視点」であり「思想」であると思う。彼はまた、アボリジニは、つまり移動生活民は絶対に放浪などしないとも言う。放浪は「共有の精神に反した自分勝手な行為」なのだ。旅好きで、放浪にロマンさえ抱く私たち定住民は、移動することを、移動しない人に対する優越であり、与えられた特権だと思ってきたが、新型コロナウイルス禍によって、その旅好きの私たちが、小さな土地に縛り付けられた存在であることを思い知らされた。今回のパンデミックが去っても、いずれ新たなパンデミックがやって来るだろうから、私たちはこのことを忘れない方がいいのだろう。

 ちなみに、ご両親が住む新潟で4月に計画されていた保苅実さんが残した写真での「保苅実写真展」は、新型コロナウイルス禍の影響で延期になりました。いつの日か開催されることを祈っております。

 最後に、「展示することの意味を、ポスト新型コロナウイルスにおいて考えてみること」、これを11月18日までの宿題にしたいと思います。