「札幌市大通り地下ギャラリー500m美術館」、「反骨の創造性」展に展示したOn_沙流川のテキストと写真の一部を掲載しておきます。

 幕末に、サハリン、国後、択捉を含む蝦夷地を、六度に渡って調査した松浦武四郎は、膨大な地名を記録した。日高山脈から太平洋に流れ出る沙流川流域においても、松浦武四郎は、その地の人びとが口から発していたであろう、ひとつひとつの沢の名の「音」を丹念に採集し、片仮名で記録した。「On_沙流川」は、彼の記録した名を頼りに、沙流川に流れ込む支流、沢を撮影したものだ。

 沢に入り、そこを探るということは、視覚のみならず、手さぐりで、耳をそばだて、風の流れや湿り気や匂いに気をくばりながらおそるおそる前に進むことになる。つまり、普段以上に、視覚以外の触覚、聴覚、嗅覚などを動員することになる。使用したフィールドカメラでの撮影は、レンズを閉じ、4×5サイズのフィルムホルダーを装着してシャッターを切るという操作になる。三脚を使わないために、ファインダー内の構図を確認することは出来ず、また、焦点もあらかじめ任意のどこかに設定することになる。写真の成立のプロセスに最も支配的な感覚である視覚の介入を、極力限定して撮影は行われる。

 沢の内部をまさぐる行為は、(ベンヤミンの言う)建築を受容する際に使用する諸感覚、すなわち、視覚以外の諸感覚の使用と似ている。とはいえ、そこに成立する写真は、あくまで視覚的なものであるだろう。そこには、建築を実際に使用する際に動員される触覚、聴覚、嗅覚などは、少なくとも表面上には現れない。それは、文字を使用しないアイヌの地名の「音」を、カタカナで表記するという武浦武四郎の、ある意味倒錯した行為に擬えることができるかも知れない。無文字世界に介入して、そこの固有名としての「音」を文字化してしまう暴力性への批評的位置は、写真のもつ暴力性、つまり、絶え間ない流れの中で変容する出来事を、瞬間として固定してしまう写真行為への批評的位置としても捉えることができるかもしれない。他者の場所に踏み入ってその固有名を記録すること、その場所を可視化すること、この二つの行為に対する批評的な位置は、未だ定まってはいない。

シケレベ
シュプン
タユンナイ
パラタナイ
ペンケヲプ子ナイ
ポロペタルナイ
モサラ
ユウパシユセヲナイ
ヲイサルンべ
ヲコマウシ