国立台湾美術館で、昨年から行われていた世界不隨人類生滅(世界は人間なしに始まり、人間なしに終る)展が終了しました。

現地に行けず、自分でも見ることができなかった展覧会でした。

展示したテキストと写真、それからアートフォーラムでキュレーターの山峰潤さんが代読してくれた原稿をアップしておきます。

[東日本大災害被災地 東北太平洋岸]

715年律令国家政府(古代日本の中央政府)が関東地方の住民多数を

東北(陸奥国)へ移配。

720年 陸奥国でエミシの反乱。

724年 中央政府、陸奥国宮城に多賀城創建。

774年 エミシの桃生城侵略。「三十八年戦争」が始まる。

794年 中央政府が東北に最大規模の征討軍を派遣。エミシの強制移住が本格化。

802年 エミシの族長アテルイが中央政府軍に降伏。

811年「三十八年戦争」が終焉。全国多地域に渡るエミシの移配。

869年 貞観地震発生M8.3~8.6。

1189年 鎌倉幕府軍の侵攻により東北藤原氏が滅亡。

1611年12月2日 慶長三陸沖地震(あるいは十勝・根室沖)M8.1。

1793年2月17日 宮城県沖地震M8.0~8.4

1868年 東北同盟軍(奥羽越列藩同盟)が明治新政府軍に降伏。

1896年6月15日年 明治三陸沖地震M8.2~8.5。
1933年3月3日 昭和三陸沖地震M8.4。

1936年5月 関東軍「満州農業移民100万戸移住計画」を作成。

1955年12月19日 原子力基本法が成立。  

1960年11月 福島県が原子力発電所の敷地提供を表明。

1961年 大熊町、双葉町議会が原子力発電所誘致促進を議決。

1971年3月 東京電力福島第一原発が運転を開始。

1975年1月 住民が東京電力福島第二原発1号炉設置許可処分取り消しを求めて

提訴。

1982年4月 東京電力福島第二原発1号機が運転開始。

1991年 双葉町議会が「原発増設誘致」決議。

1992年10月 福島第二原発1号炉設置許可処分取り消し訴訟で、最高裁が原告

側住民の控訴を棄却。

2011年3月11日14:46 東北地方太平洋沖地震が発生M9.0。

2011年3月12日15:36 東京電力福島第一原発1号機水素爆発。

浪板
水上
古川沼
波路上
下江井

[福島原発事故 帰還困難区域]

2011年3月11日

 14:46 東北地方太平洋沖地震が発生M9.0。

 15:27頃 津波第一波到達(福島第一原発)。 

 15:50 最大波到達(南相馬市沿岸)。  

 19:03 政府、原子力緊急事態宣言。

 20:50 福島第一原発から半径2km圏内の住民に避難指示。 

 21:23 福島第一原発から半径3km圏内の住民に避難指示/半径3kmから

 10km圏内の住民に屋内退避指示。

2011年3月12日

 5:44 10km圏内に避難指示を拡大。 

 7:45 福島第二原発から3~10km圏内屋内退避。

 15:36 福島第一原発1号機水素爆発。

 18:25 福島第一原発から半径20km圏内の住民に避難指示。

 19:04 原子炉への海水注入開始。 

2011年3月13日 

 5:10 3号機の冷却機能喪失。

2011年3月14日 

 11:01 福島第一原発3号機原子炉建屋が水素爆発。 

 18:22 2号機の燃料棒が全露出。

2011年3月15日 福島第一原発から20~30km圏内の住民に屋内避難指示。

2011年3月25日 福島第一原発から20~30km圏内の住民に自主避難要請。 

2011年4月22日  20~30キロ圏内を緊急時避難準備区域に、飯舘村葛尾村

などを計画的避難区域に設定。 

2011年12月  避難区域の「帰還困難区域」「居住制限区域」「避難指示

解除準備区域」への再編を決定。

 2011年の3月11日に東北太平洋岸で起こった地震と津波は、東京電力福島原発事故を引き起こしました。いまも続いているその事態は、原子力という、人間には完全なコントロールが不可能だと思える技術を、人間が使おうとして起こった、近代の歪みが極限に達した姿であるように思えます。

 私の『自然史』というシリーズは、人間と自然との関係が、近代においてバランスを崩してゆく状況のもとで、人為的なものの崩壊や放置の後に現れる様態を捉えるための試みです。『自然史』は、3.11を契機として、最初のコンセプトを変更し、制作をはじめました。

 この『自然史』の制作過程で、常に問題になっていたのは、私たちが普段、何気なく使っている「自然」という言葉は何を指しているのか、「自然とは何か」という問題です。さらに言えば、「人為と自然」といった二項対立的認識で、自然を捉えていいのか、という疑問です。私には、放射能という物質が、純粋に「人為」のエリアに属するものとは思えなかったのです。

 今回の展示は、『自然史』の写真集での形態とは幾分違っています。それは、「年表」を、「写真」と併置して提示していることにあります。年表は、通常写真に添えられる、いわゆるキャプションではなく、写真と同等の機能を果たすものとして展示しています。私は、手に入る資料から、あるものを選別し、あるものを排除し、新たに組み合わせ、年表を作りました。

 「東北太平洋岸」の写真につけた年表は、日本の歴代の中央政府からは、常に辺境として位置付けられて来た東北の歴史と、そこで頻繁に起きてきた地震の記録を意識して作りました。一方、「福島帰還困難区域」の年表は、地震と津波という自然災害と、そこから発生した原子力発電所事故が引き起こした、当時そこで起きていた事態のドキュメントを意識して組み立てました。

 「年表」は、ごく簡略した形ですが、「場所の歴史」を示します。ところが、「年表」に併置された写真にできることは、単に「場所」の、ある一瞬の、一断片を指し示すだけです。写真に出来ることは、「それ」を指し示すことだけなのです。写真が示すものは、多くの場合、その場所の歴史の「不在」なのです。

 さらに言えば、写真はメッセージを持たない、記号でもない、意味あるいはイメージの海を漂う異物のようのものだという側面を持ちます。この意味を持たない写真は、そうであるがゆえに、「意味」の海を、留まることなく漂うことになります。なので、写真は、どのようなところにも流れ着き、付着し、一瞬の輝きを放つ可能性を持ちます。そして、その輝きは見る角度で様々な色に変化するにしても、その写真が示す画像の形はいつまでも不変なのです。『自然史』は、「自然」に向かう思考の流れの中に、このような写真を投げ込もうとする試みです。

 地震と津波からの甚大な被害を受けた東北太平洋岸では、建造物が崩壊した場所に、ゆっくりと自然(植物)が浸透してゆく様態を捉えようとしました。しかし、福島では状況が異なります。それは、言うまでもなく放射性物質の飛散という事態です。

 福島第一原発の事故で、退去命令が出され、居住を制限されていた地域では、その後、除染という地表の放射性物質を取り除く作業が行われ、その制限が徐々に解除されています。しかし、帰還困難区域とされた地域は、一部の特別なエリア以外は、土地としての利用が不可能なままになっています。そのエリア内で、場所を表す機能を有しているのは、まずは、放射線量なのです。いわば、数値のみが場所の差異の基準なのです。福島帰還困難区域は、数値以外の「すべてが平板化した世界」なのです。

 この帰還困難区域のような、平板化した世界は、特別な場所である帰還困難区域だけでなく、私たちの生活の場にも、偏在しています。帰還困難区域は、東京や札幌といった都市にも、その周縁地域や農村にも存在しています。帰還困難区域は、私たちの周りに、見えないかたちで遍在している、今回の展示以外の写真も含めて、『自然史』で、示そうとしたことは、このことでもあります。

 世界は、均質化、同質化に向かって雪崩れている。すべてが平板化した世界は、救いようのない、恐ろしい、終末的な世界のイメージです。しかし、人為的に構築されたものが、崩壊したり、放置されたりした世界が、植物に覆われていく光景は、ある種の美しさを含んでいるようにも思えます。それは、もしかしたら、消滅していく人間の、単なるノスタルジーなのかもしれません。あるいは、人間がいなくなっても自然は残るという、ある種の救いなのでしょうか。この問いは、『自然史』の制作中に、つねに頭の片隅にありましたが、そのことへの応答は、いまだ輪郭さえ定かではありません。

 いま、自然史の続編を制作しているですが、そこで目指していることは、「平板化」に向かって崩壊していく世界が、完全な「平板化した世界」になる前の、バラバラに分裂し、平板化されかかった個々のものに、差異を見つけることです。それは、人間と、動物、植物の境界を超えて、個々の「生」に向かいあうことであり、そこに、生の抑圧への抵抗の根拠を見ること、希望を見出すことです。