金子遊の「批評の奪還 松田政男論」について

昨年末に「第1回映画芸術評論賞」の佳作を受賞したこの論考は「映画芸術 2010冬号」に掲載されている。

松田政男的映画批評の復権を主張するこの論考は、松田政男が足立正生らと製作した、永山則夫の足跡をたどる「『略称・連続射殺魔』や、大島渚の『東京セン争戦後秘話』に言及しつつ、「映画」と「批評家」と「社会」の直接的関わり方を模索し、新たな批評の場の創出を目指しているようだ。かつて提示された「松田政男風景論」や「原将人(正孝)風景論」の再浮上が、「(風景)の奪還」に何ごとかを寄与するかどうかの検証の、第一歩と考えたい。

引き続き、金子遊の

アートポリティクス (コロノス芸術叢書)書評。

豊島重之による論考「二歩と二風のサーガ」への言及は、松浦武四郎らの、安易で情緒的な引用への危うさを喚起してくれる。

さらに次の一節。

「それに対する抵抗の力を、豊島はアントナン・アルトー的な「舌語」や文様など、人々の深い記憶の底に眠る身体感覚に見い出しているようである」という指摘は、

豊島重之がディスカッション出演する「メイエルホリドの演劇と生涯展 没後70年・復権55年」を待ち受ける私(たち)への、モレキュラーマニアクスによる警句、

「豊島による直近の長大な論文(百枚!)「不審船 二歩と二風のフーガ」(「アートポリティクス」収録/論創社)および今回の公演のアフタートークともつながる「演劇のアポトージス第四章《ハエを呑み込む口が、ハエの口に呑み込まれるにはどうすればいい》」を幾度となく咬み締めながら、時を待つべし。」とともに、全身で受けとめ、わが貧弱な脳髄を駆使して読み解かねばならない。