新・忌部紀行
今年の正月3日及川廣信先生よりいただいたメールに、次のような一節があった。「徳島市の街を歩いていて、あんなに自由を感じたことはありません。」こんなにうれしいことはない。
図に乗るわけではないが、
昨年に引き続き、正月休みの帰郷で、徳島県吉野川市というわがふるさとの一角にある、忌部(インベと読みます)山に行ってきたので紹介します。
ぼさくのトップに使ってある写真が忌部山から見た吉野川の流れです。昨年のぼさくでも紹介しましたが、今回は写真で紹介します。写真だけだと分かりづらいので、昨年の文章も掲載します。横着ですが、文章は昨年と同じなので、すでにお読みいただいた方は写真だけご覧ください。
私の生まれ故郷である徳島県吉野川市は吉野川の中流域に位置し、旧名を麻植郡川島町三ツ島といいます。隣町に忌部という興味深い名の場所に、忌部山という標高250mほどの小山があり、麓に忌部神社、その少し上に近隣の人々からは「聖天さん」と呼ばれているらしい寺社が、さらに山道を歩くと、忌部山古墳群と呼ばれる5基の古墳があります。今回帰郷した機会にその近辺を歩いてみました。吉野川市一帯(正確なエリアは分かりませんが)は古代阿波忌部と呼ばれる氏族の支配圏だったようです。
これは聖天。寺らしいが、神社のようでもある。
鳥居と仏像が同居しています。
伊勢神宮の形状に似ている気もします。
聖天から忌部山古墳群への登山道は実にミステリアスです。
忌部式と言われる忌部氏の古墳群
丸山幸彦氏による「図説日本の歴史-徳島の歴史-」掲載の「カイフ(海部)とソラ(空)の世界」という興味深い記述に出会いました。素人の誤読の恐れの上、さらにおおざっぱな要約で、丸山氏にご迷惑をお掛けする心配をしつつも、紹介いたします。
まずカイフです。氏の記述によれば、
徳島県の海岸地帯、南部の海部郡から北部の鳴門市に、古代より海を活動の舞台とする人々の生産と居住の場が点在していた。そこに鳴門海峡から阿波を越えて土佐にまで延びる海上ルートが想定でき、さらには、それは紀伊水道を中心として、淡路島、紀伊国を含めたカイフ(海部)の世界を構成している。
次にソラ。
平野地帯である吉野川上流から少し山が迫った地域である中流域の人たちは、剣山を中心とした山地方面を指して「ソラ(空)」と呼んでいたらしい。忌部山のある麻植郡山崎は、四国山地に入る交通路の起点であり、平野の世界とソラの世界との境の地、津であり、市が立つ場所であった。忌部氏とは、市を通して山の世界と交渉を持つ存在でした。
ソラです。ほんの入り口。四国山脈には、こんな世界が果てしなく(車で行ってもたいした距離でもないのに果てしなく感じます)続いています。
ほかに山地を指してソラと呼ぶ地域があるかどうか知りませんが、なんとも魅力的な響きです。忌部山型石室といわれる古墳が点在する忌部山を含む、かなり広大な地帯をかつては麻植郡と呼びましたが、この麻植(オエと読みます)という響きも古代的で美しいと思います。なぜかこの地帯は、麻植市とも忌部市とも名付けられず吉野川市という名になってしまいました。
丸山氏のご指摘で興味深いことは、カイフとソラと平野が(さらには土佐や紀伊や畿内とも)吉野川により密接に結びつけられていたということです。今回、ソラの世界の一端にも触れることができた気もしています。
ソラとカイフを繋ぐ吉野川です。
単なる田舎自慢です。お付き合いありがとうございます。
次の機会(多分かなり先ですが)にはカイフの世界、阿波水軍の遺跡などをご紹介します。逃げ腰にならないでおつきあいの程を。