わがホームページのリニューアルはゆっくりですが進行中。「地名」「ミズノチズ」および「On_沙流川」の写真もいずれ見られるようにします。

もうひと月前になりますが、CD-Rをお送りしたお一人の林浩平さんが、感想をご自身のブログに掲載してくれました。身に余る言葉の数々をありがとうございます。この場で改めてお礼申し上げます。

これは最近のことですが、書肆吉成の吉成さんもブログで私の写真について触れてくれました。
吉成さんの文に答えるかたちで、私の、ささやかな、写真への愚考を述べてみたいと思います。

『吉成様

いつも拝見しているブログに自分の名前を見て、しかも管啓次郎さんの詩や宇波彰さんの建築批評と一緒に論じてくれていて、とてもうれしいです。ありがとうございます。
同時に、江別倉庫でのご災難、お見舞い申し上げます。本を濡らしてしまった悲しさはこれからのますますの本を巡る活動で消し飛ばしてください。

おっしゃるように写真には私たちの空間やものへのまなざしを相対化する力があるのでしょう。しかし、視覚の制度性はしたたかで写真が持つ視覚への衝撃など、あっという間に自分の領土に取り込んでしまうとも思います。私が普段気にしていることのひとつは、写真にとってフレームとは何かということです。
管啓次郎さんの「オムニフォン」に「映像にはフレームがあり、言語が伴走する。」という1行を見つけました。(実は今、遅ればせながら管さんの「オムニフォン」を拝読しています。詩への感性や素養がまるでない私にとって林さんや管さんの著作はおおくのことを教えてくれます。)この文章で、写真が必然的に持っているフレームについて、再度確認させられました。写真がフレームを持つ、あるいは持たざるを得ないということへの無自覚が、写真がやすやすと視覚の制度(制度などという言葉を安易に使ってはいけないのかもしれませんが)に捕われてしまう理由のひとつだというという気がします。
いくつもの「オムニフォン」に教えられたことのひとつは、ウイリアム・エグルストンの写真(吉成さんに以前お見せしたと思いますが)への新しい視点です。管さんの指摘する、アメリカ南部の文化を合衆国一国の枠で見るのではなくカリブ海文化の一環として見るという視点は、エグルストンの写真への視野を大きく広げさまざまな地層を見せてくれる気がします。エグルストンは海の彼方の島々をどう意識していたのでしょうか。 

「オムニフォン」を拝見しながらこんなことを考えていました。私の貧しい脳みそではこんなことしかキャッチできませんが、これからも林さんや管さんの著作に接して少しでも何かを得たいと思います。

次号のアフンルパル通信には、倉石信乃さんも寄稿されると聞いております。楽しみにお待ちします。 』