図書新聞3003号に「ソーシャル・ネットワークとソシアリスム」と題された松本潤一郎氏の論考が、掲載された。副題に−ICANOFとMolecular theatreの襞-余白に−とあるように、2011年1月15日と16日に行われた「Molecular theatre公演『のりしろ nori-shiro』」と、前嵩西一馬氏の司会で、吉増剛造氏、鵜飼哲氏、豊島重之氏が参加されたアフタートーク(ハエのための演劇—『飢餓の木2010』刊行記念)、および『飢餓の木2010』という書物に対する論考である。この刺激的かつ緻密な論考に対し、粗雑かつ曲解に満ちた読みであることのお詫びを前提に、その論点を手探りしてみたい。

松本氏の論考は、まず、黒田喜男の詩篇や対話から朗読される<聲>と、その聲にあくまで非・並行的に行なわれる役者たちの身振りを、場を踏み外し、痙攣によって場を震わせる身体運動と見なし、そこから「思考」「観照」「縮約」「総括」「交通」といった諸概念を引き出し、複雑に組み合わせてみせる。それは同時に、豊島氏とMolecular theatreによる、「真二つに叩き割られた己の生の後半分を、発見的に発明しつつ、協働的に疾走し続けるための準備」でもある。

松本氏は、「交通」という概念から、黒田喜男の「あんにや」、吉増氏の「ひとりんちゅう」や豊島氏の「おひとりさま」と、みずからの体験をつなぎ、「眼と耳を澄ませて立ち尽くし、その場で/を消尽する彼を、翻って私は、聴解-観照-理解することができるだろうか?」と内省する。さらに、「「ひとりんちゅう」と「あんにや」、そして私の見た彼とを、私は、差別(化)的に、異(下/化)-同様に、同一視(化)-固定している。」と断ずる。

氏は、資本主義とは、あらゆる男女に「長男」となることを強制するような体制、と考え、黒田の「あんにや」の思考は、このような体制の解体というモチーフを抱えているだろうことを、さらには「あんにや」になる意志は、自己の置かれた場を、その場で、みずから(から)抜けだす異化の作業と切り離せないことを、本公演は、提示した、と指摘する。そこから氏は、「デリダの<除/助-名>という擬態概念を、黒田喜男独特の<党>論へと接木する実験を、行なうだろう。」と宣言する。

「擬態としての党」とは何か。昨年9月、八戸で行われた「KwiGua展」におけるトークイベントでの松本氏の言葉、それは<貨幣を媒介としない、物の流通>という発言であったが、それはどういうことかと、トークの翌日の朝食の合間に伺ったことがある。その答えは、言葉自体は違っていると思うが、<飢餓の状態で、目の前のストアに山積みされた食料品への、取得の権利>といった意味のことを答えられたと記憶している。この「権利」を保証するものは何か。そのとき「擬態としての党」はどのような役割をはたせるのだろうか。

黒田にとっての<党>とは、永遠の未成である、空集合-空っぽの、擬態としての、みずからを分割し続ける運動体としてのそれである。ここにきてその<党>は、黒田喜男の思考という遺産を私たちが相続-継承し、伝達するための創設作業として、にわかに輪郭を現し始めたかに見える。「人びとが互いの言葉に本気で向き合い、耳を傾け合い、聴解するという経験の場」、「そしてこの意味における限りでの<党>」、あるいは<ソシアリスム>。<党>とは、「(レイモンド・ウィリアムズが『文化と社会』結論部において定義した意味での)<共通言語>を、分裂集合的に、創出する協働作業の場」なのだ。そして、ソーシャル・ネットワークをさらに進めてソシアリスムへ、という作業の重要性が、明確に述べられる。

『飢餓の木 2010』に掲載された松本氏の論考、『党と自然—黒田喜男の思考』では、「自然」と「共同幻想」、「資本制」と「天皇制」、「革命」と「権力」などが複雑に絡み合った深い裂け目の、「その奥に未成の<党>はある」という黒田の思考が、鋭くえぐりだされて描かれている。このような黒田の、何ひとつ抽象化することを許さない凄まじい格闘のひとつひとつを、ソーシャル・ネットワークはどのように掬い上げるのだろうか。「人びとが互いの言葉に本気で向き合い、耳を傾け合い、聴解するという経験の場」(の前段階)として、ソーシャル・ネットワークは、すでにあるのだろうか。

しかし、その答えは、「<共通言語>を協働的に創出する作業の実践」のなかでしか、ないのだろう。その実践の最中にある、ICANOFとMolecular theatreの運動から、松本氏ともども、目が離せない。その道程に、つねにこの刺激的な論考を携え、幾度となく立ち戻ることで、お礼とお詫びに替えたいと思う。