シド5坪農園2年間の報告

2021年1月、香川県さぬき市の志度というところに、家を借り、長年暮らした札幌から移住した。志度の借家の庭は、雑草が茂るのを嫌ってなのだろうが、防草シートと砂利で、一面覆われていたので、大家さんに頼んで、5坪ほどを畑にさせてもらった。

コンクリートの下はガレージ

家は讃岐平野の中の、小高い丘陵地帯にあり、土は、見た目には野菜の栽培には向きそうもなく、叩けば簡単に割れる岩がゴロゴロと出てくる。

土を改善するために、まずミミズのコーナーを設置。

枯葉を集めてきて、溝に埋める。

まず、試したのが、ピーマン、トマト、イタリアンパセリ、ゴーヤ、オクラ。

これはイタリアンパセリ。多分荒地でも大丈夫な品種だと思う。


これはオクラ。

これは、6月22日の状態。


オクラ、トマトもなんとか育った。トマトの味は良好。


イタリアンパセリについた蝶の幼虫。どんな蝶になるか見るために、そのままにしておいたが、突然いなくなった。

バーブ類は、何もしなくても育つ。これはバジルとローズマリー。春に植えたものが、9月でこの状態。

これは10月22日の状態。

秋にブロッコリーを植えたが、農薬は使わないので、こうなる。

10月の状態。

コスモス
収穫後のゴーヤ。

有機農法系のサイトには、ミミズの効用が書いてあるが、どうも納得できない。

地面を耕せば、ミミズが作った彼らの環境は破壊される。ミミズにたよっておいて、環境を壊すのはおかしい。

そこで、不耕起栽培をすることに決めた。不耕起栽培とは、単純に言えば地面を耕さず、除草もせず、草の根とバクテリア、ミミズや虫たちが作る環境を壊さず、得たい野菜を栽培する。

冬の間、枯れ草で地面を覆って、少量の米ぬかを撒き、バクテリアの活動を助けてやるだけ、あとは放置する。

この状態で冬を越す。寒いけどバクテリアは、植物の根の周りで生きて活動している。

ここから2022年

春になり、サニーレタスやら何やらが混じったタネをばらまいておくと、芽が出てきた。

この頃、忙しくて、これを食べた記憶がない。

ピーマンとナスもなんとか育った。

ワイルド・ストロベリーにも、小さな実が。

ゴーヤのそばでひねくれていたパッションフルーツは、収穫後のゴーヤを刈り取った途端、窓を覆うほど育って、花が咲き、実までなった。

で、不耕起栽培の結果は、トマトは全滅、ピーマンもゴーヤも育ちが悪い。

しかし、不耕起栽培は、諦めない。

原則として、農薬、化学肥料は使わない。虫は、排除しないで、ドクダミとアルコールでつくった液を野菜にかける。草取りもしない。

秋にサニーレタス、イタリアンパセリ、パクチー、アサツキを9月に植えたが、

結果、まあまあ順調だと思う。

パクチー
サニーレタスとイタリアンパセリ
アサツキ

アサツキは、年を越して、根を収穫するつもり。アサツキの球根は、酒の肴としては絶品。

私には、アーモンドなどのナッツ、オリーブの実、アサツキの球根がビッグスリー。あとは、谷中しょうがもいいけど、ビールを飲まなくなったので、あまり食べなくなった。春が楽しみです。

この状態で、年越し。

暮れの寒波襲来のとき、瀬戸内でも寒かった。
これはアサツキ、地下で球根が眠っている。

ここから2023年

年明けも、寒い。

レタス、イタリアンパセリ、パクチーはまだ収穫しています。

これからも、不耕起栽培を追求し、成果を報告します。

女木島と男木島

瀬戸内国際芸術祭が開催中の、男木島、女木島を連続して訪問。男木島は、春に続いて2度目。展示中の作品もさることながら、両島ともに興味が尽きない島だ。

女木島には、オーテという不思議な名の、集落を守る石の建造物があり、独特の空間を形成している。今回は時間がなく見ることができなかった丸山という名の古墳があるそうで、次回訪れてみたい。高松市から4キロの距離とはいえ、周囲9キロ弱の小島に、古墳があるのは不思議な気がする。

女木島から高松市までフェリーで20分、通勤可能。この写真は男木島からの高松市街。

まずは男木島から、10月12日。

ここから女木島、10月20日。

この廃墟のような古民家を再生しようと企んでいる猛者(女性です)がいます。今後、展開があれば報告します。以下の写真はこの建物の内部。

以下、オーテです。

村山悟郎作品「生成するドローイング」

男木島で村山悟郎さんの展示会場に行ってきました。

古い民家の床の間や壁に設置された板に描かれた不思議な文様、まずは、その気が遠くなるような緻密な手作業に、圧倒されながら引き込まれてしまいます。

生命科学や情報工学の、先端の知見やシステムを操作しながら制作された村山作品に言及する術を、私は持ちませんが、住まいと一体化したその展示の感想を、自分の作業とのわずかにあると思える接点から述べておきます。

先に、「圧倒される」と書きましたが、その展示空間・民家には、住んでみたいと思わせる空気に満たされています。生命の原初的な生成を思わせる村山作品と、人に住まうることで生成した家というものとが、調和でもなく、均衡でもなく、もちろん対立などではなく、和みや安息でもなく、違和をも含んだ心地いい緊張を感じさせてくれるように感じます。

この作品が、展示のための空間でなく、民家とのコラボレーションでなされていることは、重要だと思います。

窓から見える男木島の集落。

男木島は、高松港からフェリーでまずとなりの女木島まで20分、そこから20分、40分で行けます。

つまり、高松への通勤可能な距離にあります。

その集落は、隣の女木島とも違って、独特の構造を持っているように思います。

この集落も、当たり前ですが、生成されたものであることを感じます。

建築家やハウスメーカーや、諸々の職人たちの企図とは無縁に、人が住むことによって生成していく建築として「家」を見たいと思っている私には、村山作品が作り出す形象と生成した家との邂逅がもたらした空間との出会いは、形をなさないままであった私の思いに方向を指し示してくれる得難い体験でした。作品からもそうですが、この集落からも、天と地の狭間の、わずかな空間に住んでいる人間にとって、家とは何かという問いへの応答を聴き取れるように感じています。

会期中にもう一度行ってこようと思います。