北海道新聞に寄稿

「四国から北海道へ」というタイトルで寄稿した文が4月2、3日夕刊に掲載されました。このタイトルは、担当していただいた古家昌伸さんの発案です。こういう機会を作ってくれた古家さんに感謝申し上げます。

以下、掲載のテキストと写真です。

「四国から北海道へ」

 「四国八十八ヶ所霊場」の地である四国、特に徳島県は、多くの北海道移民を送り出した地域であり、その最も顕著な例は、1879年(明治12年)の後志管内仁木町への入植だ。仁木町はそのときのリーダーの名、仁木竹吉に由来している。1903年(明治36年)に徳島団体が入植した上川管内中川郡オンネナイ(現美深町恩根内)には、愛媛からの団体もほぼ同時期に入植している。愛媛からの入植者の一人、神野槌之丈は、独力で天塩川の石から像を刻み、恩穂山に新四国八十八ヶ所霊場を作り上げた。現在も地域の歴史、文化として保存され、信仰の対象ともなっている。それは、私たちが現在アートと呼ぶもの、あるいはそれらとの境界線をなすものとみなして、差しつかえないと思う。すぐれたアート作品がそうであるように、石に刻まれた像は、静かに心を揺さぶる。 

 同じ天塩川筋に、天塩新四国八十八ヶ所霊場がある。恩穂山の霊場の創設者は四国出身者なのに対し、天塩の霊場の形成への関与者は四国出身者とは限らない。歴史研究家村田文江氏の論考「天塩新四国八十八ヶ所霊場」によれば、霊場開設にかかわった人たちの生業は様々であり、居住地域も天塩、幌延地域を越えて拡がっている。したがって、その背景を単純化することは避けなければならないが、それを、国内(内国)植民地という特殊な場所としての北海道における、「大師信仰」を核とした、新しいコミュニティ形成の萌芽と捉えることはできないだろうか。 

 恩根内は、アイヌ語地名を起源としていて、その音をカタカナで表記したオンネナイが漢字表記され恩根内となった。北海道の地名は、その多くがアイヌ語地名を起源とし、それらが漢字表記されるに至る。地名研究の第一人者山田秀三氏は、オンネナイの元のアイヌ語は「onne-nai」と推定している。onneの意味は、「年取った、主要な」だ。山田氏は、実際の場所を丹念に調査するのだが、「訳に苦しむ」と述べている。地名の起源にたどり着くことには、つねに、こういった不確実性がつきまとう。入植者たちが、故郷の信仰、文化などを携え、自分たちのコミュニティを形成していった北海道は、原野と呼ばれた場所も同様に、こうしたアイヌ語地名に覆われた場所であったのだ。

 北海道の地名の変換は、音声的にはかろうじて連続性を持ちながら、意味的にはほぼ切断している。それは、開拓使に代表される日本国家と「内地」からの入植者、そして、何より先住民族であるアイヌとの、それぞれの歴史の繕いがたい亀裂でもあるだろう。網走生まれの文芸評論家川村湊氏は、あるシンポジウで、地名の漢字表記の問題を、「北海道を異質化しようという意識はどこかで働いていて、だから漢字化することの中には、それをちょっと特殊化する、異質化するという働きもあった」のではないかと発言している。葦原、湿地を意味するアイヌ語sar(サル)は、沙流、佐瑠、去、あるいは猿などと表記される。川村氏の指摘に沿って考えると、沙流と猿のあいだにある差異は、どう考えられるだろうか。漢字表記は誰によってなされたのかという問題が、そこに浮上するだろう。

 ごく単純化していえば、北海道という土地は、入植者が持ち込み、同時に形成していった文化とアイヌの固有の文化に、近代国家・資本という圧倒的な力が覆いかぶさって、風景を形成している。拙作「地名」は、地名の変換という事象から、現在の風景に覆われて、不可視化している北海道の風景の歴史性に接近しようとした試みである。北海道の地名の漢字表記が示す問題は、かつて漢字が輸入されたときに生じたであろう、北海道以外の古代の日本列島で起こったことと似ているかもしれない。しかし、北海道ではそれが、明治政府成立以降の、つまり、国民国家形成と近代化の過程のなかで生じ、先住民族であるアイヌ民族と入植者、そして権力の周辺を当事者としていることで、極めて現在的な問題を含んでいる。それは、私たちが今直面し、これからも直面する、私たち自身の、現在の、そして未来の問題なのだ。

恩穂山新四国八十八ヶ所霊場

<猿骨、もとになるアイヌ語地名は sar-e-ukot(葦原が・そこで・合流している)>  シリーズ「地名」より 

 日本列島の地質学的形成と深くかかわる「中央構造線」は、日本列島がまだ、大陸の一部であった時代、中生代白亜紀後期に生じた、長大な断層であり、九州から始まって、四国では、伊予市上灘から新居浜の南側、そして吉野川の左岸を通り、ほぼ直線的に四国を横断している。それは紀伊水道を越えて高野山麓をかすめ、伊勢神宮を通過し、列島の中央部でフォッサマグナと交差したあと関東を出て、太平洋に消える。中央構造線は、大陸側と海溝側の境界線なのだ。

 北海道へ多くの移民を送り出した四国徳島で、仁木町への移民団は、中央構造線の南を並走する吉野川中流域を故郷とし、オンネナイへの移民団の出身地渋野村(現徳島市渋野)は、中央構造線からはやや南にずれるが、恩穂山新四国霊場を創設した神野槌之丈の出身地愛媛県新居浜は、まさに線上に位置する。四国の中央構造線上から、多くの人たちが北に向かい北海道を目指したのだ。

 四国八十八カ所霊場は、霊山寺を一番札所とし、中央構造線が走る讃岐山脈(阿讃山脈)南麓に沿って西に、十番札所切幡寺まで十個の寺院が続く。四国霊場は、空海にその淵源を持つとされている。武田和昭著『四国へんろの歴史 四国辺路から四国編路へ』はじめ、多くの研究者の指摘によれば、空海が二十四歳のとき著した『三教指帰』に記載されたの大龍嶽(二十一番札所太龍寺)、室戸岬(二十四番札所最御崎寺)、石鎚山(六十番札所横峰寺)は史実に基づく空海の修行場とされている。中央構造線の北に位置する八十八番札所大窪寺は、香川から大滝嶽や室戸岬へ向かう途上に位置し、武田和昭氏は、前記の著書で、空海修行の地の一つと推定している。大窪寺の後ろにそびえる女体山は、それにふさわしい威容を放っている。

 四国霊場をめぐる、野外制作と徳島近代美術館での展示「四国の天と地の間」(1999年)を行った美術家大久保英治氏は、その図録に掲載された「旅の日記」で、空海ゆかりの寺院と鉱山、特に水銀鉱山の分布が一致していることに言及している。縄文時代から鉱石が採掘されていたといわれる丹生鉱山の所在地は、三重県多気郡多気町で、中央構造線上にあった。高野山麓には、水銀鉱山と関わりをもつと言われ、高野山、空海とも深い関係をもち、丹生の名が組み込まれた丹生都比売(にふつひめ)神社が存在する。

 結局のところ、四国霊場は、空海の修行の場、水銀鉱山のネットワーク、さらにいえば、中央構造線、それらのどれもが、超越的な起源とならないような仕方で、生成されたのかもしれない。北海道の各地にある新四国霊場が、そうであるように。

 また、中央構造線が、私たちの文化や歴史の形成に何か因果関係があると仮定してみること自体、危険でもある。私たち人間の尺度からは、地質学が指し示す時間はあまりにも桁が違っていて、私たちが安易に実感できるというべきものではない。しかし、最近とみに人口に膾炙する「人新世」は、地質学的な時間のありように、私たちを否が応でも直面させているようだ。「人新世」とは、オゾン層破壊の研究でノーベル賞を受けたパウル・クルッツェンらによって提唱された、いまだ定まったとはいい難い、しかし無視できない、地質学上の概念だ。それは、人間の活動が限度を超えて、地球のシステムに甚大な影響を与え始めた、今現在の、地質学的な時期を指す。「人新世」という時代を認めるということは、人間の文明の土台となった、最終氷河期が終わった1万1700年以降を指す完新世の終焉を意味する。そして、その最も重大で危機的な結果の一つが気候変動なのだ。事実、北海道はいまや赤ワイン用ブドウ品種であるピノノワールの栽培適正地となり、以前はあり得なかった台風の北海道上陸が、観測されるようになった。もしかしたら私たちは、たかだか一世紀足らずのあいだに、つまり、一人の人間の生のあいだに、新しい地質時代への移行を体験してしまったのだ。であるなら、比べればほんの一瞬の時間としかいえない人間の歴史や文化を見る視線を、地質学的な時間の尺度に添わせて見ることは、人間が直面している諸問題を考えるうえで、無意味とは思えない。それは、これからの未来を生きていく若い世代のみならず、残りの時間が、あと僅かになった世代の責務でもあるだろう。

八十八番札所大窪寺と、後ろにそびえる女体山

大窪寺奥の院の胎蔵峯寺(たいぞうみねじ)。空海修行の地と伝えられる。

中央構造線露呈地のそばに位置する小星山金剛寺大師堂。

On_沙流川について

「札幌市大通り地下ギャラリー500m美術館」、「反骨の創造性」展に展示したOn_沙流川のテキストと写真の一部を掲載しておきます。

 幕末に、サハリン、国後、択捉を含む蝦夷地を、六度に渡って調査した松浦武四郎は、膨大な地名を記録した。日高山脈から太平洋に流れ出る沙流川流域においても、松浦武四郎は、その地の人びとが口から発していたであろう、ひとつひとつの沢の名の「音」を丹念に採集し、片仮名で記録した。「On_沙流川」は、彼の記録した名を頼りに、沙流川に流れ込む支流、沢を撮影したものだ。

 沢に入り、そこを探るということは、視覚のみならず、手さぐりで、耳をそばだて、風の流れや湿り気や匂いに気をくばりながらおそるおそる前に進むことになる。つまり、普段以上に、視覚以外の触覚、聴覚、嗅覚などを動員することになる。使用したフィールドカメラでの撮影は、レンズを閉じ、4×5サイズのフィルムホルダーを装着してシャッターを切るという操作になる。三脚を使わないために、ファインダー内の構図を確認することは出来ず、また、焦点もあらかじめ任意のどこかに設定することになる。写真の成立のプロセスに最も支配的な感覚である視覚の介入を、極力限定して撮影は行われる。

 沢の内部をまさぐる行為は、(ベンヤミンの言う)建築を受容する際に使用する諸感覚、すなわち、視覚以外の諸感覚の使用と似ている。とはいえ、そこに成立する写真は、あくまで視覚的なものであるだろう。そこには、建築を実際に使用する際に動員される触覚、聴覚、嗅覚などは、少なくとも表面上には現れない。それは、文字を使用しないアイヌの地名の「音」を、カタカナで表記するという武浦武四郎の、ある意味倒錯した行為に擬えることができるかも知れない。無文字世界に介入して、そこの固有名としての「音」を文字化してしまう暴力性への批評的位置は、写真のもつ暴力性、つまり、絶え間ない流れの中で変容する出来事を、瞬間として固定してしまう写真行為への批評的位置としても捉えることができるかもしれない。他者の場所に踏み入ってその固有名を記録すること、その場所を可視化すること、この二つの行為に対する批評的な位置は、未だ定まってはいない。

シケレベ
シュプン
タユンナイ
パラタナイ
ペンケヲプ子ナイ
ポロペタルナイ
モサラ
ユウパシユセヲナイ
ヲイサルンべ
ヲコマウシ

札幌大通地下ギャラリー500m美術館.vol.33「反骨の創造性」展

 昨日、藤木正則さんの展示が完了し、札幌大通地下ギャラリー500m美術館.vol.33「反骨の創造性」展が、参加者全員そろって再スタートできました。数カ月に渡る新型コロナウイルスによるパンデミックの下での生活という非日常と、その状況のなかで展示を行うというはじめての経験は、鈍い頭にも多少の思考を促しているようで、輪郭が明確にならず不明瞭なままの言葉ですが、恥を忍んで記しておきます。

 ある著名な歴史学者は、(私たちは)「国際的な連帯で危機を乗り切るか、国家的な孤立主義を選ぶか」選択を迫られている、また、新たな独裁者が生まれる可能性もあり、民主的な制度を維持するかどうかの選択を迫られている、という。そして、この危機がもたらす憎しみ、強欲を斥け、連帯によってその後の世界をよりよいものにすることはできる。我々はいま、その分岐点にいる、というのだ。分岐点?凡庸極まる私でも、人類が分岐点にいることぐらいはわかる(と思う)。民主主義的な制度が大事と言うが、では、あなたの国の民主主義は大丈夫ですか、と問いたくなってしまうのは礼を欠いているだろうか。でも、どうもどこか釈然としない。あなたたちはあなたたちの政府を民主的に選べていますか、と問いたくなってしまう。私には、私たちの政府に対してそう言い切れる自信はない。

 また、著名な生物学者は、危機的状況を認めること、個々が責任を自覚すること、他から学ぶことの重要性を強調する。そしてこの危機は、「世界レベルのアイデンティティ」をもたらす可能性がある。必要なことは「政治的なリーダーシップ」だという。だが、現実には、世界は、この危機的状況に不必要なリーダーたちだらけではないか。しかもこの危機的状況にもっとも不必要な指導者は、他ならぬあなたの政府の指導者ではないかと言いたくなってしまう。もちろんこの著名な生物学者は、そんなこと承知の上なのだし、これも礼を欠いた物言いだと思うのだが、それでもやはり釈然としない。

 大澤真幸さんは、国民国家を超える連帯が必要だという。そして、新型コロナウイルス問題は、破局へのリアリティーを増幅させ、膠着状態を変える可能性があるという。もしかしたら、今回のパンデミックは、世界を破局状態に向かわせるかもしれない。ただそれはそれでとてつもない苦難を、そして、より弱者に、耐え難い苦難をもたらすということではないか。今の状況を「静かに進行するカタストロフィ」(浅田彰氏)だと認識すれば、膠着状態を変えることの現実性に希望が持てるのかもしれないのだが。

 『分解の哲学』の著者藤原辰也さんの言う「私たちはもう、コロナ前の旧制度(アンシャン・ジレーム)には戻れない」ということは間違いないように思える。また、彼が「パンデミックを生きる指針」の第一にあげる「うがい、手洗い、歯磨き、洗顔、換気、入浴、食事、清掃、睡眠という日常の習慣」は、私たちにも実行できそうだ。問題は、これらは彼が言うように「誰もが誰からも奪ってはならない」ことなのだが、私たちの政府はどうだろうか。私たちの政府がこれらのことを「誰からも奪わない」、(少なくとも日本に居る)すべての人たちにそれらを与えようとする政府であるとは、少なくとも現状では思えない。私たちの政府がその方向に将来向かうことも期待できそうもない。せめてそれぞれの都道府県レベルの自治体、あるいは市町村レベルの自治体がそういう意志を持ち、その方向に向かおうとすることには、希望をもちたいと思う。そのためにできることは何か。

 開業が延期になっていたウポポイは、6月9日に、白老町民に限定した内覧会の募集を始めたのだが、新型コロナウイルスは、「観光」にも強烈な衝撃をもたらした。グローバル資本とわが国民国家の協働(結託)による「観光」戦略は、大きな変更を強いられるのだろう。ここで思い出すのが、旅行家ブルース・チャトウィンの名著『ソングライン』と歴史家保苅実の「ソングライン」理解の差異だ。旅を心から愛するチャトウィンは、アボリジニを知るためにオーストラリアを旅し、「ソングライン」と呼ばれる歌の道と出会う。アボリジニは彼らの大地を歌の道、すなわち「地図」として記憶し、歌によって語り継ぐ。それはアボリジニの、先祖代々伝わる神話でもある。彼らはこの歌の地図を使って、オーストラリアの大地を「自由に」旅することができる。これがチャトウィンの『ソングライン』のベースとなる考え方だ。だが、保苅は、チャトウィンのこのソングライン理解に対して、彼への心からの愛情を表明しつつ、異論を提示する。ソングラインは「未知の土地を旅するための地図」ではないと断言するのだ。彼は、自分の知らない土地を旅するためには、「そこの「歌の地図」の所有者・生活者とその精霊の許可を受けて、その土地を彼らと共有しなければ」(保苅実ブログより)ならないという。「ソングライン」は、アボリジニの「歓待」の装置であり哲学なのだ。私たちが、知らない土地を旅するときの、あるいは逆に他者を迎えるときの、最低限であるとともに最高のレベルでの心得がここにはあると思う。それは、ポスト新型コロナウイルスにおいて、「観光」あるいは「旅」をあらためて考えてみるとても重要な「視点」であり「思想」であると思う。彼はまた、アボリジニは、つまり移動生活民は絶対に放浪などしないとも言う。放浪は「共有の精神に反した自分勝手な行為」なのだ。旅好きで、放浪にロマンさえ抱く私たち定住民は、移動することを、移動しない人に対する優越であり、与えられた特権だと思ってきたが、新型コロナウイルス禍によって、その旅好きの私たちが、小さな土地に縛り付けられた存在であることを思い知らされた。今回のパンデミックが去っても、いずれ新たなパンデミックがやって来るだろうから、私たちはこのことを忘れない方がいいのだろう。

 ちなみに、ご両親が住む新潟で4月に計画されていた保苅実さんが残した写真での「保苅実写真展」は、新型コロナウイルス禍の影響で延期になりました。いつの日か開催されることを祈っております。

 最後に、「展示することの意味を、ポスト新型コロナウイルスにおいて考えてみること」、これを11月18日までの宿題にしたいと思います。