富永紘光さん

下川町在住で、薪屋とみなが店主、富永紘光さんがスタジオに来てくれた。

ずいぶん時間が経ってからの報告ですが、『ウェブマガジンカイ』にライターの石田美恵さんの、素敵な文章とともに見てくださいhttp://kai-hokkaido.com/feature_vol35_shimokawa6/

 

富永紘光さんは以前、ムーンウォークを体験させてくれた人でもあります。そのときの感覚は、「すべての感覚の解放」とでも言うべきものでした。また味わいたいです。これもカイに掲載されています。http://kai-hokkaido.com/feature_vol35_shimokawa1/

 

 

 

前日には、名うての「森林生成工作者(私の造語)」である、陣内雄さん、足立成亮さんとの森林整備の作業に同行させてもらったのだが、

陣内さん

 

足立さん

 

彼らの作業は、50年を遥かに越え、100年、200年先の未来を見据えてなされている。彼らには、すでに数十年を経た大木や、これから育とうとする幼木たちの、100年、200年先の姿が見えているのだ。

 

 

 

 

今私たちの社会に跋扈している、自分たちにしか見えていない空虚で愚劣な理念を掲げ、あしたの株価と支持率のみに心を砕く政治家たちを見るにつけ、彼らの有り様は、圧倒的にうつくしく、ただしく思える。

羅臼のギャラリーミグラードと北方民族博物館

昨年から再開した「地名」の撮影の途中で羅臼に立ち寄りましたが、タイミングよく、ギャラリーミグラードがオープンしました。
以下、「ギャラリーミグラード内覧会「関勝則作品展」のお知らせ」からの引用です。
 「一般社団法人知床羅臼町観光協会では、本町通りと道の駅側の国道に面する元羅臼ユースホステルを改装し、羅臼の魅力を発信する新情報拠点としてギャラリーをオープンすることとなりました。
 ギャラリー名となるミグラードは、エスペラント語(世界共通語)で「渡り」。(注1)これまで羅臼で撮影されてきた写真は、いまや世界中の人々の目に触れ、北海道の貴重な生態系を伝える優れた媒体となっています。この素晴らしい羅臼の自然や動物たちに魅了された写真家、そしてその想いに共感した方が、国内外を問わず、まるで渡り鳥のように羅臼へ何度も訪れています。
 こういった動向を踏まえ、観光客向けの・天候に左右されない滞留場所の設置・本町、市街地の利用促進・長期滞在の促進・外国人旅行客への適切な情報提供を目的として、本ギャラリーを使用し、新しい観光振興のスタイルを発信していきます」
1

2

3

4
現在行なわれているのは、「羅臼の海の生き物たちを撮影し続ける羅臼町在住の水中カメラマン、関勝則氏の作品展」

以下、到着から夕暮れまでのわずかな時間に、羅臼在住のアーティスト中村絵美さんが案内してくれた羅臼の夕景です。斜里シリエトクノート中山芳子さんも同行
5
羅臼市街の真ん中を流れる羅臼川。後方は羅臼岳

8
観光船会社「ゴジラ岩観光」の小林社長が作ったペンション「ラウスクル」。多くの写真家の羅臼での宿泊所になっているそうです。小林社長は「観光協会の役員さんでもあり、ギャラリーの施工の強力な助っ人(中村絵美記)」。小林さんとは初対面でしたが、このあとの会食ですっかりごちそうになってしまいました。小林さん、ごちそうさまでした。実に美味しかったです。

9

11
ルサ川

12
ルサ川右岸、このあたりにアイヌのチャシ跡があるそうです。おそらく大量の鮭が遡上したものと思われます

13

14
ルサ川河口からすぐの場所に設けられた鮭の稚魚の放流場所

ついでに市街地で見かけた超レトロな「パチンコ 遊技場」を紹介します。
16

17

19

羅臼を訪れる度に感じることは、世界自然遺産に登録された手付かずの自然の場所としての「知床」ではなく、先住民の活動の場所であり、漁労従事者が、「自然」とともに生きて独自の漁労文化を形成した場所であり、開拓者が挑んできた場所でもあるという当たり前のことだ。生粋の漁師でもある小林さんと話していても、そのことを明瞭に感じます。

以前北海道マガジン「カイ」で、取材させてもらった知床国立公園区域内の羅臼町赤岩地区。詳しくは、「カイvol29」でご覧いただきたい。
19a

19b

19c
赤岩地区への観光ツアーの試みは、人と「自然」との関係を模索するための重要な実験です。継続を切に願います。

翌日斜里、網走で「地名」の撮影を行い、札幌への帰途についたが、網走まで来て、やはりここを素通りしては帰れない。
北海道立北方民族博物館です。
20

学芸主幹笹倉いる美さん(笹倉さんには最近の図録や報告書などをいただきました。笹倉さん、昨夜の小林さん、ありがとうございます)としばしの会話(保苅ミノルに関する新情報を入手、詳細はあらためて)の後、展示室へ。ここの展示は何度見ても見飽きません。
20A

20B

20C

21
サミの男性用衣装。かなり大柄な人だと思われる

22
ナーナイの花嫁衣装

23
北米北西インディアン トリンギ(ブランケット)とハイダ(帽子)

24

26
オホーツク文化人のみごとな造形作品

27

切りがないのでこれくらいで終わります。

粟島(善入寺島)

リンゴ、ブドウ、サクランボ、イチゴ、ブルーベリー、プラム、ナシ、プルーン。ざっと思いつくだけの仁木町で栽培されている果物です。以前、ドイツからオーストラリア(ニュージーランドだったか)に、農業を学びに行く途中に北海道に立ち寄った女子大生のヒッチハイカーを仁木町から小樽まで乗せたことがありましたが、彼女は、リンゴと露地物のトマトがひとつの場所で穫れることに驚いていました。
道外の、仁木町を知らない方にお教えしますが、余市川という清流の下流域で、なだらかな丘陵がほとんどを占め、ウイスキーの街余市町(マッサンというNHK朝ドラの舞台でもあります)の隣りに位置する仁木町とはそんな所です。

仁木竹吉というリーダーに率いられ、その地に入植した開拓団361名は、徳島県の吉野川市という地域からの移住者です。現在吉野川市と名乗っている地域はかつての郡名では、麻植(中世までは麻殖)と記して「おえ」と呼ばれていました。このブログでなんども紹介してきた阿波忌部の勢力圏はほぼこの地域に重なるようです。

その忌部が、粟を栽培したと伝えられるのが、入植者集団の出身地粟島(善入寺島)。吉野川の中州である善入寺島は、つねに洪水の脅威にさらされた地域で、そこの住民の集団が仁木町に入植したのだという。
仁木町史には次の記載があります。
「偶々明治七年郷里吉野川大洪水の為氾濫して流域の田畑流失し、一面石原と化するの惨状を呈し、農民の窮乏惨状に黙するに不忍、竹吉率先此羅災村民を救ひて今後の楽園を本道に需んとして、明治八年草創時代の本道に渡来して本道各地を抜渉する・・・・」

以下、現在の粟島(善入寺島)を紹介します。
1

2

3−2
絶滅危惧種Ⅱ類に指定されているナベズルが飛来していました。

3
吉野川北岸の切幡寺から南岸の藤井寺までの遍路道は、粟島を横断しています。

4

5
1915年にこの地域は強制移住させられますが、それ以前に信仰されていた浮島八幡宮という神社が存在していたようですが、これが跡地でしょうか。

6

7
洪水へのささやかな備えがこのようになされていますが、効果があるのでしょうか。竹薮の向こうは、吉野川本流です。

7-2
洪水はこのような窪地を残します。幼年期の私はこんな土地の隆起や窪みに異様に引かれました。その性癖はいまでも続いています。

8

9
対岸の川島城があったといわれる城山を望み、手前が吉野川本流

10
粟島から川島への沈下橋。遍路道でもあります。
11

12
城山から望む粟島

13

15
城山の光景。隣にコンクリート製の天守閣ができていますが、これは無視します

『湾生回家』というドキュメンタリー映画が、台湾で大ヒットしているそうです。
湾生とは、日本統治時代に台湾で生まれ、日本の敗戦によって日本に引き揚げた日本人をさす言葉、回家は、故郷の台湾に戻るという意味だそうです。
「帰国(この場合の国は日本のことですが)」を強いられ、高齢となり、台湾に戻りたいと望郷の念に駆られる人たちのドキュメンタリーが台湾でヒット(しかも大)しているということは実に興味深いです。
この映画を知ったのは、雑誌「世界」の2016 年1号に掲載された四方田犬彦さんの「日本映画の中の戦後七十年」という映画批評からです。
注意を引かれたのは、映画自体もそうですが、四方田氏の文章の、
「『湾生回家』で中心となるのは、二十世紀の初頭、徳島県吉野川流域から集団で花蓮近くの荒地に入植した農民たちの裔の男性である。彼らは入植地を吉野村と名付け、・・・」という部分。
もしかしたら、この湾生たちは、粟島(善入寺島)を退去させられた人たちではないかという連想が、ただちに浮かびました。粟島(善入寺島)は、1915年に強制退去させられていて、時代的、場所的には符合します。もしそれが事実だとしたら、北海道の仁木という場所と私の生まれた川島町という町、それと台湾の彼らの入植地とが、川の洪水という自然のもたらす事態によって結ばれることになります。もっともこのことは未だ確認はできていません。『川島町史』にも、善入寺島を退去させられた人たちの行方は、記されていません。なんとか資料を探したいものですが。

ところで、四方田さんの論考は、この映画だけでなく、映画の「戦後70年」をめぐる表象を、多義に渡って展開しているので是非一読を。